07.12.12(水) 母・雅子告別式

 本日いよいよ、母雅子の告別式。7:40、小室セレモニーホール着。350通を超える弔電の中から、紹介する6通を厳選。式次第や受付体制、火葬場及び納骨の段取り、精進落しを確認。
 9時、開式。本日も200名を超える会葬者の弔問。自民党県連・本清幹事長、成尾県議会副議長をはじめ、多くの皆様に御焼香いただく。天台宗長楽寺秋田住職より引導が渡され、葬式は終了した。印西市議会議長・出山国雄氏から弔辞をいただき、弔電紹介に続き、喪主の私が謝辞を述べる。(下に、鈴木宗男代議士の弔電と私の謝辞を掲載する) いよいよ、棺桶に花を入れ多くの会葬者が涙、涙のお別れをする。棺桶の蓋を閉める際、家内は最後に「お母さんの娘になれて、本当に良かった」と言って号泣した。自分も泣いた。また、宇野県議(匝瑳)、西田三十五県議(佐倉)、鈴木県議(市川)には、最後までお付き合いしていただく。涙を流し(特に西田氏)、励ましてくれた先輩の情けと心に感謝である。大勢の人に見送られ、小室セレモを出発。11:15、印西斎場で火葬を行う。14時、六軒区墓地に納骨。50人を超す、親戚、後援会スタッフとともに最後のお別れをする。
 15時、六軒・香取屋で精進落としの宴。献杯する。17:30、自宅にもどる。夜まで、弔問客が続く。長い一日で、疲労困憊する。

   『 新党大地代表・鈴木宗男代議士の弔電
 尊敬してやまない滝田県議のお母様の御逝去、心からお悔やみ申し上げます。
 人生八十年の今日、七十四歳での突然の永遠の旅立ちはあまりにも早すぎ、御本人もどんなにか無念だった事でしょう。
 お聞きしますところ、七日、滝田県議が本会議で一般質問をすることになっており、後援者のお迎えをしている時の出来事だったそうですが、滝田県議の晴姿を見ようとしていた矢先、
お母さんの御胸中を思う時、言葉がありません。
 私鈴木宗男が大変な時も心配してくれた優しいお母さんでした。恐らく滝田県議の支援者の皆さんに心から感謝しての旅立ちだった事でしょうが、かえすがえすも残念でなりません。
 心から御冥福を祈り、お別れと致します。

 私は鈴木代議士の心ある弔電を聞き、涙を流した。

    『 遺族代表謝辞
 本日は、公私ともにお忙しい中、御会葬頂きまして誠に有難うございます。
 故人となった母・雅子も、こんなに多くの方々に見送られ満足して旅立ったものと推察いたします。また、霊前に御供花・御供物を賜り、有難く御礼申し上げます。
 母・雅子は、去る12月7日、私の県議会一般質問を傍聴するため、近所の奥様方を迎えに、木下駅南口の滝田本店前に車を駐車し待機中、急性クモ膜下出血で倒れ、日本医科大学北総病院に救急で搬送されました。脳外科部長以下、緊急チームも作られ懸命の治療が続けられたものの、8日0時15分に帰らぬ人となりました。私としても、市議時代も含め10年で、議会の傍聴に初めて来るというので、心から楽しみにしていたのですが、本当に残念でなりませんでした。
 思い起こせば、母・雅子の人生は波乱万丈でした。昭和8年7月25日、印旛村岩戸に6人兄弟の五番目、女一人として生まれました。佐倉の女学校を卒業後、洋裁を学び、昭和三十年22歳で旧大森町・六軒の滝田家に嫁ぎました。滝田の家業である洋品店を切り盛りするかたわら、三人の息子の母として育て上げ、また三世代の五人もの家族を看取ってまいりました。今のような介護保険もなく、寝たきりの祖父や祖母の面倒を必死で何年もみていました。商売と子育てと介護を同時に行うという、まさに女でありながら芯の強い滝田の大黒柱でもありました。
 また、親戚や近所付き合いも良く、苦労人でありながら明るく、周囲をよく和ませておりました。そして、自分のことよりも、まず他人のことを心配し気を遣う、思いやりの人でもありました。
 皆様から愛され、本日、このように多くの人に見送られ、母・雅子は幸せな人生に幕を引くことができたと思います。
 御蔭様で、葬儀も滞りなく済ませることができました。
 これからは、残された遺族に対し、故人同様のお付き合いを賜りますようお願い申し上げ、遺族・親族を代表しましての御礼の言葉とさせていただきます。
 本日は、誠に有難うございます。

 二日間で、延べ1000人をゆうに超える会葬者にお越し頂いた。心から、あつく御礼申し上げたい。明日から、いよいよ政治活動を再開していきたい。天国で見守る、母のためにも頑張りたい。
by takinowa | 2007-12-13 00:36


<< 07.12.13(木) 07.12.11(火) 母・雅子通夜 >>