09.08.13(木) 故・花沢三郎先生 新盆見舞

 朝、地元の新興住宅地でポスティング活動。9時半、印西を出て千葉市土気へ向かう。11時、故・花沢三郎先生の新盆見舞い。棚飾の先生の遺影に向かい、焼香し合掌。今にも先生の声が聞こえてきそうな気がした。あらためて、県政で頑張ることをお誓いする。11時半、土気を出て東金でランチして印西へ向かう。
 13時半、事務所にもどり仕事。15時から新盆見舞いで市内を廻る。17時、事務所。18時、自宅から六軒区の共同墓地へ。迎え盆で御墓参り。
 最近、橋下・大阪府知事や中田・横浜市長が知事会等でマニフェストを採点するなど、頻繁にメディアに登場しつつ存在感をアピールしている。彼らの主張は、「地方分権」改革や「道州制」の導入である。ただ、「一体、何様のつもりか?」と、私は率直に申し上げたい。地方自治体の一首長が、たかだかその程度のシングル・イシューで総選挙に口を出すとは。とんでもない大きな勘違いと言わざるをえない。首長は首長らしく、地方の声や地元の要望を国政に反映してもらうのが仕事。マスコミに煽(おだ)てられ圧力団体よろしく、国政という権能外の事柄に口先介入するのは如何なものか。国の基本政策や制度、外交・安全保障など国家の根幹に関することは、選挙で選ばれた国会議員が議会において決することなのだ。
 この間、私のところにも「彼らの言動は大人気(おとなげ)ない。言葉遣いにも<長幼の序>が感じられない」とか、「橋下知事は自分の選挙で自公に推薦してもらいながら、民主に風が吹けば乗り換えようとする。あまりの身勝手さ、恩義を忘れる変り身の早さに驚いている」、「中田市長は度重なる女性醜聞(スキャンダル)や博覧会の大失敗など、その責任追及を逃れるための任期途中の市長辞任は絶対許せない!無責任至極!」・・・、といった数多くの意見がメールやFAXでも寄せられてきている。少々、厳し過ぎる指摘ではあるが、思わず頷いてしまう部分も多い。
 また、誠に情けないのは、この手の首長の顔色を見て右往左往する政党である。選挙で少しでも人気知事に味方をしてもらおうとする魂胆がミエミエだ。自民の東国原知事擁立劇もブッ魂消たが、橋下知事の指摘でマニフェストをあっさりと修正する民主も凄過ぎる!
 さて、とても憂鬱かつ不愉快な気分であるのだが最近、上記の首長や民主党方面(一部自民も)で「霞ヶ関解体」、民主・鳩山代表からは「革命的~」といった発言や表現があったと記憶している。それぞれ、「・・・更なる地方分権の推進」、「更なる改革の推進」といった文脈で使用されていたと思う。それにしても、「霞ヶ関解体」とはあまりにヒドい。アナーキズムというよりは、野蛮なヴァンダリズム(破壊主義)である。
 いずれにせよ、私のような真正の保守政治家を目指す元新左翼の人間にとって、俄かには信じ難い言葉遣いである。そして、それらの言葉を全く違和感なく、空気のように受容する社会が現下の日本に存在している。実に空恐ろしく、「マジかよッ!」と感じる。 もちろん、彼らの用語法はマルクス・レーニンのDNAを経由したものではない。ただ、思想的には進歩(合理)主義や新自由主義を下敷にしており、ハッキリ言って革新=左翼なのだ。問題は薄められた左翼思想が、社会の支配的イデオロギーとなりつつある現状である。
 私も覚悟を決めなければならない。理性の限界や人間の不完全性を認識することが保守精神である以上、彼らとは選挙戦だけでなく徹底した思想戦も闘わなければならない。もちろん、社会の支配的イデオロギーとも・・・ 「急進的(革命的)改革ではなく漸進的改革を」、「地方分権か中央集権かの二者択一ではなく、分権と集権の平衡を」、「大きな政府か小さな政府ではなく、効率的な政府を」・・・といった具合に、中庸や平衡を大事にしなければ、あらゆる改革は庶民に災厄をもたらすのだ。先人と歴史の知恵に学び、伝統を尊重することにより、はじめて改革も常識的なものとなるのだ。 自民党も大いに反省しなければならないが、左翼小児病の政党に政権を渡す訳にはいかない! 日々、力の限り頑張るしかない。
 また、本ブログの読者に申し上げたい。「革命的」と同様に「抜本的な」という形容詞を使用する政治家を、絶対に信じないで頂きたい。具体的な裏付のない無責任な主張をする政治家に限って(与野党問わず!)、この言葉を遣いたがるので、御用心 Be careful !ですよ、と。
 夜、読書。最近、高校時代に一通り読んだ太宰治にハマっている。とりわけ、昭和23年・玉川上水での入水自殺間際の心が病んできてからの小説に。 「ヴィヨンの妻」(新潮文庫・362円)を読んだ。デカタンス、家庭破壊・・・といった、あまりに破天荒な生き様は、どこから来たのだろうか。亀井勝一郎は、太宰の死を「根底においてその倫理観から来たのではないか」と評論している。確かに倫理観念が強ければ強いほど、現実の生における罪悪感も強まるに違いない。そして、罪と死というテーマが太宰の心を病的に覆ったのであろう。罪悪感の増大が自己への不信を招き、さらに生への不安も極大化し絶望へと至る。とするならば、佐藤優の言う「自分に向けられたテロル=自殺」において、不安を一挙に解消するという精神現象の理路が見えてくる。
 知人から借りた渡辺淳一著「欲情の作法」(幻冬舎・1100円)を読む。「失楽園」や「愛の流刑地」など、ベストセラーを連発する人気作家の最新作(ハウツー本)。内容的には超難解であった。また、1970年代に250万部の大ベストセラーとなった奈良林 祥(やすし)先生の著作「How to ○○○」シリーズを思い出した。中学時代、クラスの友人からコッソリと借りてドキドキしながら頁を捲ったことが懐かしい。私の親しい先輩も、「渡辺文学の連載(日経)に嵌ってしまう」と話していた。北総鉄道やJRなどの通勤電車で、日経新聞の連載小説を楽しんでおられるビジネス・パーソンもいらっしゃるだろう。
by takinowa | 2009-08-13 21:44


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